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Posted by TI-DA at

2007年09月27日

スタート

僕は昔から、自分の思ったことを「ことば」にするのが苦手だった。

頭の中で渦巻いているさまざまなことを
正確に伝えようと
「ことば」をさがせばさがすほど、
実際に思っていることとズレていってしまう。

結果、言い出すタイミングを逃したり、見当違いなことを言って後悔したりしてきた。

そのことについて
僕は半ばあきらめていた。

2007年9月26日深夜

僕は自分自身の「ことば」をさがそうと決意した。
きっかけは久茂地にある、「寓話」というジャズを聴かせる店だ。
(それについては後で書こう。)

そんなわけで僕はこれを立ち上げた。

  


Posted by いわしろ at 13:30Comments(2)

2007年09月28日

27

僕は今年の3月地元の同級生が営むバーで、
ビールとケーキとクラッカーと共に、27歳の誕生日を迎えた。

27年間という年月は、ちょっとすごい。

独立した国の政治が行き詰ったり、ジョンレノンが伝説になったり、
0歳児が結婚適齢期に達するには充分な時間だ。

それなのに、この27年間、僕は自分の考えたことを
自分の「ことば」で正確に伝えられたことは、数えるほどしかない。

僕はおそらく「ことば」と相性が悪いのだ。

  


Posted by いわしろ at 02:23Comments(0)

2007年09月29日

ビル・エバンス

前置きが長くなった。
僕はいつもそうだ。

・・・続けよう。

僕が沖縄に来たわけは、僕の母にあった。

沖縄の小さな島出身の母は、沖縄が日本に復帰する4年前に、小さなトランクと、パスポートと、
夢と希望でぱんぱんにふくらんだココロを持って内地へと渡った。

そして、東京で僕の父親に出会う。
東京が、日本全国の若者が憧れる『華のト-キョー』だった頃だ。

僕の父親は人とは少し変わったものの考えかたをして、僕の母も少し変わったものの観かたをする人だった。

二人は恋に落ち、母は僕の姉を身ごもった。
僕は姉の生まれた22ヶ月後に生まれた。

僕と姉は、東京の下町で、父方の祖母に溺愛されて育った。
  


Posted by いわしろ at 02:43Comments(0)

2007年09月30日

ビレッジ・バンガード

僕の父と母の生活は、東京の下町でなんとなく続いたが、十年がたった後、
ふたりは別々の道を歩むことになった。

僕が小学校3年生の春のことだ。

クラスメイト達は、転校する僕のためにパーティーを開いてくれた。
その時、あまり親しくなかった渡辺君が、
ヴァイオリンで習ったばかりのお別れの曲を弾いた。


あの旋律は

今でも僕の胸を切なくさせる。

曲名は謎のままだ。
  


Posted by いわしろ at 04:05Comments(0)

2007年09月30日

ハンク・モブレー

そういうわけで、
1988年の春、
母と姉と僕は、小さなトランクと、身の周りのちょっとしたものと一緒に
沖縄にやってきた。

那覇空港の床が、レンガ色のタイル張りだった頃だ。

母のパンプスの踵は、
まるで古い映画のイタリア製の靴みたいに
コツコツと乾いた音をたてた。

その日から僕らは
母の母親と、母の姉、そして、
僕にとってのいとこふたりが、それほど広くはない家で、
総勢7人で暮らすことになった。

母の父親は、随分昔に死んでしまっていた。
いとこ達の父親も、僕らが沖縄へ来る1年前に死んでしまっていた。


僕の父親は

今も世界のどこかで

息をしている。

  


Posted by いわしろ at 20:37Comments(2)

2007年10月02日

ハリー・アレン

僕は自分の思ったことを「ことば」にするのが苦手だ。

しかし、そう書いてしまうのはきっと語弊があった。

僕は幼い頃から本が大好きで、
頭の中にはいつでも「ことば」がひしめいていた。

日記をつける習慣はなかったが、
思いついたことをノートの端に書き付けたり、
沖縄に越してきた当初は
東京の友達と文通したりすらしていた。

そんな風に、自分の「ことば」を
少しずつ、じっくりさがせる時は、
普段あまり仲良くしていない「ことば」たちと
結構うまくやっていける。

けれど、
ぶっつけ本番の会話となると、
どんなに頑張っても
僕の思っていることとぴったりくる「ことば」は
でてこない。

そんなわけで僕は、
人と話すとき、
言いたいことはあるのに言えなくて後悔するか、
見当違いのことを言って、激しく後悔するか、

どちらかなのだ。

訂正しよう。

僕は思ったことを
すぐに
「ことば」にして
喋ることが苦手だ。


19年前、僕のために曲を弾いてくれた
渡辺君に
「ありがとう」と言いたかったけれど
僕が言ったことばは

「さよなら」だった。  


Posted by いわしろ at 00:26Comments(2)

2007年10月02日

フランク・シナトラ

恥ずかしい話だが、
僕はとても涙腺が弱い。

今は別々に暮らしている母と、
何かの拍子で昔話になると、
必ず、僕の泣き虫武勇伝が始まる。

僕は、笑いながら母のおしゃべりを聞く。
何度も何度も聞いた話だ。

そして、この歳になっても
少しだけ泣き出しそうな気分になる。

涙は「ことば」のかわりだと
僕は思う。

「ことば」にならない思いを
抱えてしまったとき、

人は涙を流す。


  


Posted by いわしろ at 23:46Comments(2)

2007年10月04日

フィル・ウッズ

沖縄に住むようになって初めての夏、
僕は母の生まれた小さな島へ行った。

島には祖母の所有する家があり、
そこで母と叔母は生まれたと聞かされた。

普段はだれも住んでいなかった。

母も叔母も仕事が忙しかったので、
祖母がひとりで
僕と、姉と、2人のいとこの面倒をみてくれた。

僕らは本当に子どもらしく、
ものすごい早起きをして泳ぎに行き、
カレーライスとスイカを食べ、昼寝をし、
目覚めたらまた泳ぎに行った。

夜はみんなで花火をし、
蚊取り線香のにおいの中、
祖母の語る昔話を聞いた。

星がすばらしく
うつくしく見える島だった。

夏の景色は
いつも
泣きたくなるほど鮮明なのに、
季節の過ぎ去った後、
すべての輪郭は夢のように
ぼやけてしまう。

すぐに
消えてしまうと
わかっていながら

僕は
夏に付随するすべてのものを
愛していた。
  


Posted by いわしろ at 00:50Comments(2)

2007年10月05日

ベント・エゲルブラダ

僕は少し変わっていると
よく言われる。

僕自身も
そう思う。

しかし、それは
僕にはどうすることもできない。

本当に

どうすることもできないのだ。
  


Posted by いわしろ at 00:07Comments(0)

2007年10月06日

ベニー・ゴルソン

幼い頃の僕にとって
「オキナワ」は楽園だった。

寒がりな僕にとっては「常夏」という
それだけで魅惑的だったし、

何より母が繰り返し聞かせてくれる
小さな島の思い出話が
素敵だった。

僕はいつも
胸をときめかせて
母の話を聞いた。

島の話をするとき、
母は必ずうっとりとして
遠くのほうを見ていた。


その視線の先には

深く澄み渡る海と
どこまでも広がる空と
色とりどりの魚が

見えているに違いなかった。

僕は
母の見ている
美しい風景が
幻想であることを
知っていながら

飽きもせず
手をのばすのだった。



  


Posted by いわしろ at 03:55Comments(0)

2007年10月07日

ホーギー・カーマイケル

母の生まれた島で
ひと夏過ごしたおかげで
僕と姉の肌は
いとこ達と同じくらい黒くなった。

「楽園」の
住人になれた気がして
僕は
誇らしかった。  


Posted by いわしろ at 06:12Comments(0)

2007年10月08日

ホレス・シルバー

いつの間にか
僕には仲良しの友達ができていた。

幼い頃の友達は不思議だ。
どういうきっかけがあったのかはよくわからないまま
いつの間にか
ものすごく長い時間を
一緒に過ごすようになる。

僕らは
本当に色々なことをした。
  


Posted by いわしろ at 02:19Comments(2)

2007年10月08日

エリック・アレキサンダー

僕の町には
赤い灯台のある港があった。

僕達の放課後は

雨の降る日などには
時折
ピーチ姫やローラ姫など
囚われのお姫様のために
尊い犠牲を払ったが、

晴れた日のたいがいは
その港に捧げられた。

海に浮かぶ二色の光を知っているだろうか?

右げん灯がみどり色。左げん灯はくれない色。
あの光のほとんどは波力発電になっている。

点滅する二つの光の間ならば
タイタニック号クラスの
豪華客船でも
座礁する恐れはない。

ふたつの光は
ずっと昔から
僕達に
安全な水域を示していた。

波の力を借りて。
休むことなくずっと。

僕達はその頃
光の意味など
知るよしもなかったが

お互いに
顔を見ながらではとても言えない内緒話は
いつでも
少し遠くの波間に見える
二色の光に向かって
語られた。

海に浮かぶクリスマス色の光と
僕達は
無邪気な秘密を共有していた。
  


Posted by いわしろ at 22:08Comments(0)

2007年10月10日

エリス・マルサディス

沖縄に来てから
2年目の夏休み、僕と姉は父親の元へ呼び寄せられた。

父親は世田谷にマンションを購入しており、
僕らはそれまで見たことのない
女の人を紹介された。

母とは全く違う女の人だった。

母の島の
空や海や魚たちを見ても
僕や母や姉ほどは
うっとりしないんだろうな、
と、ぼんやりと思った。

父方の祖母とも久しぶりに会った。

僕はこの「東京のおばあちゃん」が
大好きだった。

僕らがまだ東京に住んでいた頃、
パートに出ていた母に代わって
よく面倒を見てもらっていた。

姉と違って
何をやるにも不器用だった僕に
「根気強くコツコツやればええんじゃ」と
故郷の岡山なまりで教えてくれた。

その祖母は、僕らを見るなり泣き崩れた。

今考えると無理も無い。

でも、その時は
父や母よりも大人な筈なのに
小さな僕らの存在に必死になっている
祖母が少し滑稽に思えた。

僕は、ほんの子どもだったのだ。

その後、僕らの黒くなってしまった肌を見て
「土人の子みたいじゃわいな」
と言ってさらに泣いた。

姉の話によると、一緒に行った風呂屋で
体中がひりひりするほど
黒くなってしまった肌をこすられたという。

黒い肌と沖縄訛りを
「楽園」の住人の証だと
誇らしく感じていた
無責任な自分が
ひどくいやなやつに思えた。
  


Posted by いわしろ at 02:10Comments(2)

2007年10月11日

オーネット・コールマン

僕はあれこれ考え込んでしまうくせに、
何か突発的なことが起こると、
感覚で動いてしまう。

変なものを拾ってくるのもそのせいだ。

大人になったというのに、
僕は捨て猫、捨て犬、果ては家出少年まで
見境なく拾ってしまう。

今日も僕は
猫を拾った。
生後1ヶ月もたってないはずだ。

親猫は
子ども達を見放してしまったのか
それとも
死んでしまったのか

同僚に好きな芸能人の名前を聞いた。

井川遥

猫の名前は
ハルになった。
  


Posted by いわしろ at 01:20Comments(2)

2007年10月12日

オスカー・ピーターソン

ハルが死んだ。

海の近くに埋葬した。

僕はもう子どもではないので、
自然の摂理を知っている。

親に見放された子猫は死ぬしかない。

僕は神様に勝負を挑んで
そして負けた。

半ばわかっていたことなのに
やはり涙が出てくるのだった。
  


Posted by いわしろ at 01:04Comments(0)

2007年10月13日

ウエイン・ショーター

都営三田線、水道橋駅歩いて1分、
そこには小さな整骨院がある。

主だった患者さんはお年寄りばっかりで
頼まれれば往診もする。

そこの唯一のセンセイは
僕の父の兄、つまりは僕のおじさんだ。

おじさんはいつも冗談ばかり言っている。
気難しい僕の父とは正反対の性格だ。

僕はこのおじさんが大好きだった。  


Posted by いわしろ at 02:42Comments(0)

2007年10月14日

ウィリアム・クラックストン

僕は、海のすぐそばにある中学校へ進学した。

バスケット部と陸上部を掛け持ちした。

陸上部と言っても、秋の大会シーズンに運動部各部から
駆り出される変なチームだった。

バスケットは一向に上手くならなかったが、長い距離を走ることは好きだった。

短距離は人並以下だったくせに、
長距離なら校内で記録をたてる程度は走ることができた。

ゴールという目的があり、
そこへ向かうプロセスみたいなものを
自分で考え、自分で実行していくことが
心の成長期にあった僕にとっては面白かったのだろう。

その上、トレーニングをしたらその分確実に
僕の身体は鍛えられていった。

そうした確実性も気に入ってたんじゃないかな、と
今となっては思う。  


Posted by いわしろ at 04:00Comments(0)

2007年10月15日

アービー・グリーン

僕は
夜走るのが好きだった。

僕の住んでいた町は
開けているとはお世辞にも言いがたいところだった。

そんな町だったので、日が暮れてしまったら人気はなかった。

夜の町は
昼間と全く違う顔を見せた。

昼間も静かな町だったが、
夜は、静寂の密度がぐんと増す気がした。

自分の呼吸と心臓の鼓動が、
昼間よりもずっと近くに聞こえた。

その頃の僕は
もしかしたら
走るということで、「僕」という存在を確認したがっていたのかもしれない。
あるいはそうじゃなかったかもしれない。

いずれにせよ僕は
太陽に内緒で
恐ろしく長い距離を走り続けた。  


Posted by いわしろ at 01:00Comments(0)

2007年10月16日

アキヨシ・マリアーノ

僕は長い距離を走ることと同じくらい
いや、それ以上に
絵を描くことが好きだった。

僕は
自分の見えている世界のすべてを
紙に写そうとした。

それは本当に難しい作業だった。

それでも
根気強く自分と対話を続けていると
イメージの中の

構図が

線が

色彩が

次第に目に見えるものとなり

真っ白い画用紙が

「僕の世界」に埋め尽くされていく。

その過程を僕は好んだ。

悲劇的なのは
いつも
完成した瞬間だった。

描いている最中の胸の高鳴りは
跡形もなくかき消え
「僕の世界」は
急速に色褪せてしまうのだった。



  


Posted by いわしろ at 01:03Comments(0)