2007年11月26日

カサンドラ・ウィルソン

1999年

僕は静岡の工場で
来る日も来る日も
携帯電話を作った。

P208
iモードのハシリ。

社員寮は3LDKのアパートに3人が住むかたちで
ひとりにつきテレビと布団と個室があてがわれていた。

僕にとっては
お給料をもらる上
テレビを独占しても良いなんて
この上ない贅沢に感じられた。  

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2007年11月18日

オリバー・ジャクソン

「よのなかをひろく
しらなければならない」

その心が僕に休学を決めさせた。
学費を貯めるということは
単なるオプションだった。

いつだって
若者を動かしているのは
純粋な

きわめて純粋な

好奇心なのだ。  

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2007年11月16日

エンリコ・ピアラヌンツィ

僕は西暦と共に歳をとる。

もっとも、ごく限られた期間だけのことだが。

僕は1980年
舌を出したあの天才と
同じ日に生まれた。

10代と20代に限って、
西暦の千の位と一の位を並べると
僕の年齢になる。

僕はこの生まれ年が
気に入っている。

自分の年齢を指標に
社会の出来事を語ることができるからだ。

例えば1995年 阪神淡路大震災。(15歳…まであと2ヶ月)

例えば2001年 同時多発テロ。  (21歳)

例えば2003年 イラク戦争開戦。 (23歳)

自分だけの世界の殻を破り
社会の軸に自分の軸を合わせていく時期に
こうした数字の一致があることは
有難かった。

「世界中の人と会いたい」

ロバート・キンケイドはそう言った。

僕が18歳から20歳にかけて
もっとも強く思っていたことを
言葉にしたらそんな感じだった。





  

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2007年11月15日

ウィントン・マルサディス

僕は
世紀末最後の年
大学を休学した。

季節労働のため
静岡へと旅立った。  

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2007年11月14日

イシイ・アキラ

二層式洗濯機と同じくらい
大学寮の黒電話の消息が
僕は気になる。

あの頃大学寮に電話をかけると
まず電話交換手につながった。

各々の棟に授けられた
ロマンチックな名前
(南星とか北辰とかそういうやつだ。)
を言うと
5階建ての棟の3階の踊り場に置いてある
黒電話が鳴り出すのだ。

今度は3階の住人が
それを受け、何階の誰宛の電話かを聞き
インターホンでその人を呼び出す。

そうしてようやく
話をすることができるのだった。

現代の中高校生が聞いたら
気が遠くなってしまう話だろう。

あの不便さが
今ではとても
懐かしく思える。
  

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2007年11月13日

アート・テイラー

毎日バイトばかりしていたので
憂さ晴らしは
深夜になってからだった。

懐かしき「ピーターパン」!

僕達が通い詰めたカラオケボックスだ。

すべてにおいてうらぶれた感じがする店だった。

どの部屋に通されても
壁は卑猥な落書きだらけだったし
ソファーのカバーは必ず破れていた。
店員は愛想がなかったし
ビールは薄くて水みたいだった。

まあ無理もない。

客が酔っ払って好き放題やるうえ
持ち込みばかりされていたら
例えば新都心のシダックスだって
あんな風になってしまうだろう。

数々のヒットソングが
空気を震わせ
そして消えた。

僕達は
あふれ出す
行き場のない感情を
あの店に置き去りにした。
  

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2007年11月12日

ニール・ヘフティ

昨晩は
久しぶりに姉と呑んだ。

あんなに話したのは
本当に久しぶりだった。

サザエさんを見逃してしまった。

そういう日が

あってもいい。  

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2007年11月10日

ナゲル・ヘイヤー

何の話だっけ?

思い出した。僕の父親の話だ。

僕の父親は昨年
還暦を迎えた。

彼は
両親の事業の失敗のため
大学を中退した。
おそらく1960年代後半の話だ。

(年代的に安保闘争にも絡んでいたんじゃないかなと
 僕は睨んでいる)

そして兄弟ともども
自衛隊に入隊した。

そこで二人は小金を稼ぎ
祖母はそれを資本にして
小さなカラオケスナックを営むことになった。

身元確認のため提出した書類は
教員免許状だったらしい。

そして父親は
自衛隊を辞した後
高度経済成長期
資本主義社会の波に乗った。

稼ぎの良いサラリーマンになり
僕の母親と出会った。

そして僕らが生まれた。

彼は
語学スキルや社交術を磨き
経済界のシステムを学んだ。

少年時代からやっていた剣道も続けた。

やがて
たゆまぬ努力が実り
株式会社を立ち上げた。

あの
日本中がうわついていた時代
新しい事業に挑戦することは
たまらなく
エキサイティングだったのだろう。

今なら
彼の気持ちが
なんとなくわかる。  

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2007年11月10日

ロッド・スチュアート

僕の父親は
かなりの努力家だった。

岡山の実家は
衣服関係の商売をしていたが
父親が大学生のころ
経営が立ち行かなくなり
父親の両親(つまりは僕の祖父母だ)は
夜逃げ同然に東京へ移り住んだ。

僕の父とその兄が二人とも
東京で大学生をしていたからだ。

父方の両親はふたりとも
軍人の家の出身だった。

大日本帝国軍華やかなりし時代と
軍人たちが戦犯として次々に逮捕される時代。

そういう時代のはざまで
同じ肩書きのもと
誇らしさとみじめさを味わったらしい。

祖父は僕がものごころつく前に
死んでしまっていた。

僕がこの年齢で
日露戦争の英雄
乃木大将の歌をきちんと歌えるのは
ほかならぬ祖母のおかげだ。

祖母の昔語りは
戦前の話が主だった。

祖母は青春時代を
釜山の日本人師範学校で過ごした。
負けん気が強く
なぎなたの名手であったという。
卒業してから
あの悲惨な戦争が終わってしまうまで
化学の教師をしていた。

僕が到底
想像できないほど
誇り高く生きていたに違いない。

日本に引揚げてきて
祖母の父親が戦犯として
連行された後の話は
あまり
聞いた記憶がない。

無理もない話だ。

誰だって
思い出を語るなら
みじめなことよりも
誇らしいことのほうがいい。




・・・話が逸れた。  

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2007年11月08日

レイ・チャールズ

大学生活はバイト三昧だった。

週7でバイト。
つまり毎日だ。

働くことは悪くなかった。

決められたひとつひとつの作業を
きちんとこなしていくということと

バイトと私生活を
きちんとした
区切りをつけて
ものごとを考えることは

僕の性格に適していた。

何かきちんと
決められていると
それをできるだけ守ろうとする。

決めておかないと
なんだかわけがわからなくなって
どうでもよくなってしまう。

僕はおそらく
不器用なのだ。
  

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2007年11月07日

ルーファス・リード

寮に入ったばかりのころ。

幸せな

夢を見た。

僕は大学生で
現実と変わらないはずなのに

祖母と母と叔母と
ふたりのいとこと
僕と姉が暮らした
波の音が聞こえる
あの小さな家に

父と母と姉と僕で
4人仲良く暮らしている
そんな夢だ。

僕と父は犬を散歩につれていき、
大学のことや将来のこと
男同士の話をする。

もちろんそれほど多くは語らない。

そして僕と父はとてもおだやかに
おそらく日課であろう犬の散歩をこなすのだ。

家へ帰ると
夕餉の支度は整っており
母が味噌汁を
姉がご飯を
よそおってくれた。

姉が小声で
「どんな内緒話していたの?」
とウィンクしてきれいに笑った。
(身内バカだが、僕の母と姉はとてもきれいな笑い方をする。)

僕は首を振って少し笑った。

幼い頃から
からかわれ続けていたため
こういうときは黙って笑うのが
一番いいと知っていたからだ。

そしてあたたかい
夕食が始まった。

細かいところまで
いちいちリアルだった。

切望してやまなかった
幸せなまぼろし。

僕は
醒めたら
消える
夢なんかで
描き出してしまったのだ。


息苦しくて目が覚めた。

僕は

泣いていた。


  

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2007年11月06日

リー・モーガン

僕は
日本で2番目に大きいキャンパスを持つ
県内の大学に進学した。

実家から
通うことも
できた。

それでも
僕は大学の寮に
入ることに決めた。

母は止めなかった。

彼女は
そういう女性なのだ。

  

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2007年11月06日

ライアン・カイザー

沖縄の若者の
通過儀礼がもう一つあった。

那覇空港で
毎日のように繰り広げられる
見送り大会だ。

3月の終わり
7人組のひとりが
東京へと旅立つのを見送った。

彼は僕達が来ることを知ってか知らずか
搭乗ゲートの中に入ってしまっていた。

携帯電話が徐々に普及し始めた頃だ。

僕達は
家の電話と
家の前で名前を呼ぶ
「人間インターホン」
を愛好していた。

そんなわけで
僕達はあわてて係員のお姉さんに
彼を呼び出してもらった。

無事彼に餞別を手渡した後
僕達は瀬長島へ行った。

よく晴れた
気持ちのいい日だった。

走り屋さんたちの気合の入った車と

みんなで食べたアイスクリームと

子ども向けのゴーカートと

彼を乗せ飛び立っていく飛行機に

僕達は

移りゆく

季節の色を

見ていた。  

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2007年11月05日

メル・ルイス

1998年。

新都心や美浜に
まだほとんど何もなく
那覇空港も建設中だったあの年に。

僕達は沖縄にある
様々な場所を知った。

自動車免許の取得というのは
現代の沖縄人若者の通過儀礼だ。

へたくそな運転を
燦然と輝く
若葉マークは守ってくれた。

あの年の春
親レンタカーに
ぎゅうぎゅう詰めになって

僕達は
どこまでも行けた。

「ジジィになってもこんな風に遊んでたいな」

友達のひとりがそう言った。

ミハマの7プレックスに映画を
観に行った帰りだった。

みんな笑いながら
そうだねと言った。

マット・ディモンとロビン・ウィリアムスが
僕を感傷的にさせていた。

笑顔を作りながら
僕は
涙をこらえるのに
必死だった。
  

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2007年11月04日

ミント・ヒルトン

芸術家はすごい。

様々な
新しいものを生み出すのは
もちろんのこと

心に渦巻く

カタチにならない
様々なイメージを

目に見えるかたちで表現してくれる。

国際通りと平行してある

楽園通りのお茶屋さんで

僕は昨日

芸術家の

静かで美しい話を聞いた。  

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2007年11月03日

マイルス・デイビス


心を見せるということは

負けることだと思っていた。

「ことば」は僕を偽る武器となり
たくさんの人を
傷つけた。

それでも

手を
差しのべる人がいた。

きれいごとや
人生における教訓を
僕は時折
疑った。


けれども

あれは本当なのだと思った。

あれが本当なのだと思った。  

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2007年11月02日

トミー・フラナガン

1998年

中学校からの仲良し7人は
恐らく人生で
一番長い春休みを
ほとんど一緒に過ごした。

相変わらず
一緒にいる意味はないような
過ごし方をした。

変わったことといえば
親レンタカーの
ドライブが加わったことと
時折アルコールが入ることくらいで
僕達はなんだかんだ集まっては
時間を共有した。

年頃の男女が7人もそろっていたのに
恋愛沙汰は一切なかった。

それぞれが
全然別のところに
恋人をつくったりしていたが
その中でどうにかなるなんて
思いつきもしない

そういう感じだった。

  

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2007年11月01日

デイヴ・マッケンナ

アルコールの
魅力を知ったのは
中学3年生の頃だった。

あの甘美な酩酊を
陶酔と
呼ぶのだと
そう思った。

けれども

そのことばの
本当の意味を
諒解したのは

燃えるような
異性のからだを
知ったときだった。

そのとき僕は18歳。

沖縄に住むようになってから
いつの間にか
10年が過ぎようとしていた。

  

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